同窓生便り
 
 
 
メルトモ共同体

大阪外国語大学教授 武田 佐知子(11A)


 50を超えたとたんに、昔の仲間がなつかしくなり、頻繁にクラス会が開かれるようになるんだという説がある。確かに50の声を聞くか聞かぬ かの時期から、急に同期会の数が多くなった。そのうえ、ひとつの会場に集って会わなくても、自宅に居ながらにして、いつでも好きなときに友と語りあうことが出来る、そんな時代がやってきた。Eメールのメーリングリストによる会話である。

 私たちの世代は、パソコンの達人というわけではない。Eメールなどという代物も、はじめのうちはホントに相手に着くのか不安で、「送信」キーをクリックしたあと、電話で「着いた?」なんて聞いて、笑われたものだ。クラス会の通 知も2年くらい前まではファクスを使うのがせいぜいだった。しかし次第に家庭にパソコンが普及し、専業主婦達もやがて子供のお古のパソコンを手に入れてだろうか、メールを始める仲間が増えてきた。そんな11期の面 々が、メールで騒がしくお喋りを始めた。

 2000年夏、大阪の天神祭の時、私が同期の仲間達に声を掛けて、大川を行き来する奉拝船に乗りに大阪へ来ないかと誘い、事務的な連絡をメールでまわしたのがそもそもの始まりだった。参加メンバーに一斉送信すると、「全員に返信」というかたちで返事が戻ってきて、そこにいつの間にか、軽口のお喋りが付随するようになった。名付けて「イメルダ通 信」。みんなに号令を掛ける私を、専制的女帝という揶揄を込めて、誰かが「イメルダ」と綽名した。それと「Eメールだ!」を掛けたあたり、なかなか凝った命名である。今では「無料メーリングリストサービス」に加入して、「返信」キーをクリックするだけでメンバー全員に、メールが届く仕組みになっている。  天神祭が終わったあとは、デジカメの画像ファイルが添付され、参加しなかった同期生達にも、祭りの盛り上がった雰囲気が充分に伝えられた。そこで天神祭のデジタル画像を見ながら、祭りの余韻を楽しむ「あとの祭り」の会も企画され、あたかも天神祭は、全員が参加したかのような、共通 の経験となった。

 クラス会で交わすお喋りと、メールでのお喋りの違う点は、現実の会話は余程大きい声を張り上げでもしない限り、何十人もの人に聞いてもらうのは不可能だが、メールだと全員が、同じ会話を共有できるということだ。しかも海外からの声だって、リアルタイムで届く。朝起きたら、時差のあるヨーロッパから、どっさりメールが届いている。私たちにとって、地球上もっとも遠い国のひとつであろうレバノンに、考古学の調査に行っている仲間からは、美しい地中海の光景と共に、次々に古代ローマの遺品など、発掘成果 の写真が配信され、古代フェニキアが、親しみ深い現実の世界になった。

 同期生だから、世代として共有する悩みがある。早い遅いの差はあっても、老人介護が、誰もの課題である。足の弱った親のために、車椅子を手に入れたいのだが、どうしたらいいかという相談には、それこそ普段は殆ど参加しない人たちまで、介護用品の専門店が、どこにあるとか、買うよりレンタルにした方がいいよとか、うちの母が使ったのがあるから、よかったら使ってとか、ビックリするほど多くの情報が寄せられた。

 不況は私たちの世代を直撃する。会社経営の友の倒産が、マスコミのニュースより早く報告されると、企業人として他人事ではないと感じる会社人たちから次々に発せられる見舞いの言葉は、企業に身を置かない者の胸にも迫るものがある。

 専攻が同じ大學の同期生と違い、高校の同期生だと、現在の職種も千差万別 である。医師、薬剤師、研究所に身を置くもの、航空関係者、農業従事者、…。なにか質問すると、必ずといってよい程、その道の専門家筋が誰か居て、極めて専門的な答えが返ってくるし、当事者でない者にとっても、やがていつか役に立つだろう色々な知識が入ってくる。

 高校時代の他愛もない悪戯が、今頃になって暴露されることもあるし、問わず語りに北海道の修学旅行や辛夷祭の時の、淡い恋の想い出が語られることもある。

 仕切りたがり屋が、簡単なルールを作ってくれて、一通あたりがあまり長文にならないこと、自慢話は避けること、とした。仕事から離れて一息ついたときに、このメーリングリストを読むことでホットできるひとときが持てれば、という配慮からである。

 チャットは、次々に噂を聞きつけて参加者が増え、現在総数40名だが、誰もが恒常的にチャットに参加するわけではない。しかし一度もお喋りの仲間に加わらない友も、日々何通 も入ってくるメールを、うるさがっているのかと思いきや、読むのをとっても楽しみにしているという声を、方々で聞く。

 クラスを超えて、同学年であるという括りだけの集団なので、お互い、高校時代は言葉を交わしたこともない仲間も多いのだが、メールで交わされる会話が、共通 のものとなっているゆえに、旧知の仲以上に、会うと親しみを感じるというのが、みんなが一様に抱く感慨だ。

朝日新聞社刊『一冊の本』(―電脳と私― 特集号2001年12月号)掲載稿を一部改稿・転載

 
 
 

フェアプレー賞

国際連合広報センター所長 高島 肇久(3世B)


 2002年3月、アメリカ・ソルトレークシティで開かれたパラリンピックで素晴らしいニュースが生まれた。競技前の検査で、障害の程度が軽いとして出場取り消しになった視覚障害アルペン・スキーの日本人選手、兵後正剛さん(三重県出身40才)に、国際パラリンピック委員会(IPC)が「フェアプレー賞」を贈ったというのだ。視覚障害のスキー競技は全盲、強度の弱視、軽度の弱視の3クラスに分かれ、兵後さんは3番目の一番軽いクラスにエントリーしていた。国内の競技会では問題はなかったが、初めての国際大会であるパラリンピックで規定に従って事前検査を受けたところ、「弱視の程度が0.05ほど軽すぎる」として出場資格を剥奪され、日本選手団の要請で行われた再検査でも同じ結果 となった。視力検査は4人の医師が行ったが、兵後さんは「見える。見えない」を正確かつ正直に答え、「資格なし」という判定も淡々と受け入れたそうだ。

 パラリンピックでは、出場資格を失った選手は即刻選手村から出なければならない。しかし、兵後さんは「出来ればそのまま選手村にとどまってアルペン競技のお手伝いをしたい」と希望し、組織委員会は、視力検査での兵後さんの態度を賞賛する医師団の強い助言を容れて、役員として登録し直すことを承認した。その後、兵後さんは大会終了まで競技の裏方としてゴール地点で選手の荷物の取りまとめ作業を熱心に続け、その献身的な働きぶりが評判となって、フェアプレー賞が贈られることになったのだという。パラリンピックでメダル以外の賞が贈られることは殆ど例がなく、最終日に突然連絡を受けた兵後さんと日本選手団の驚きと喜びは大変なものだったようだ。

 僅かの視力の差が出場資格の剥奪につながることを理解しながら正直に返事をし、その後は裏方として他の選手のために懸命に働く。その兵後さんの様子をじっと見詰めて、最後にフェアプレー賞を贈ったパラリンピック組織委員会の見事な捌きには、この上ない清々しさを感じる。内外ともに気の滅入る話ばかりが続く中で、この世界もまんざら捨てたものではないという思いを覚える出来事であった。